2021年 08月 12日
2021 CoCoへの手紙 |
CoCo、浦神は雨です。
昨日のうちに敷地内の草刈りを済ませていてよかった。
CoCoが出発して、今年で20年目。
今もまだ後悔は残っています。
前の日、動物病院から家に連れ帰ればよかった……。
たったひとりケージから旅立ったCoCo。
ごめんなさい、ほんとうにごめんなさい。
この痛みを一生忘れません。
CoCo、昨夜星野道夫さんの『旅する木』を読み返していて、ハッとしました。
「自然保護や動物愛護という言葉には何も惹かれたことがなかったが(略)」文春文庫版p.186
とあったんです。
長年私は、このことが氣になっていた。
動物愛護活動にどうしても踏み込めない自分。
小さな小さな、ホントにかすかな刺がこころにささったまま、見ないように生きてきた。
私は冷たいニンゲンなのかもしれない。
そう思われても仕方ない。
だからといって、心の底から湧き上がるような氣持ちも持たず、見せかけの活動はできない。
そんな葛藤があったのでした。
でも、星野さんの文章を読んで、それは主張でもなんでない、「こんなところに行き、こんなものを見てた」という紀行文の中のワンセンテンス。
それが真夜中、私のこころの刺をスッと抜いてくれた。
あ、あの時間はCoCoが旅立った時間だったかもしれないな。
「動物愛護」とはなんと傲慢な考えだろう、と直感的に思ったわけです。
ニンゲンが愛護するものなのか?
ニンゲンも動物なのに、なぜこんな言葉があるんだろう?
こんなふうに感じるのは今年、宮沢賢治を読んでいるからかもしれません。
そして、星野道夫さん。
アラスカに暮らし、51歳で熊にいのちを明け渡した人。
賢治にも星野さんにも動物を愛護するといった考え方はなかったのではないか。
上から目線ではない。
彼らは動物に敬意と畏れをもって対峙していたように思う。
人間が動物を管理する社会はどこかおかしい。
法律を作って、罰則を設け、ルールやマナーを守らせるのはちょっと違うんではないか。
動物愛護に関わってこなかった意味が少しハッキリしたように思う。
なにかの団体に入るとか、どこかに所属するのも極力避けたい。
他人に強要されたくない。
かといって、ひとりでは生きていけないこともこの歳になれば十分理解している。
そのへんの塩梅、若いころより多少さじ加減できるようになったかな。
CoCo、まだまだ學びの途中です。
引き続き、未熟な私を導いてください。
またお便りしますね、ありがと。
8月12日、CoCoの日、今日もご機嫌元氣に参りましょう。
by cs-nanri
| 2021-08-12 08:49
| 猫師匠たち