都合のいい解釈と記憶改ざん方法 |
おはようございます。
昨夜、高校時代のクラスメイトとのZOOMでの会話。
「出先で、靴を間違えて履いてきちゃったことに、今朝氣づいたの。でね、心当たりをたどって行ったら、昨日最初に行った場所に私の靴が置いてあるって。私が履いてきた靴のヒト、どうやって帰ったのかな?」
「あいやぁ、そういう話聞くと安心するなぁ~」
とワタシ。
ボケ自慢か? ハハハ。
でも、深刻にならずに笑って話すのがいいんじゃないでしょうか。
ワタシなんぞは根がおっちょこちょいで、老いと関係なく、年中なにかしらやらかしています。
己のアホな失敗を思い出して、爆笑することもあります。
ホントにおバカなワタシ、笑える思い出作りしとったんかい?
でもでも、負け惜しみでなく、小さいときに「ジブンを笑う」ことが身についたのは、よかったなぁと思うのです。
思うに、ジブンを笑えない人はしんどいでしょうね(そうでもないか)。
で、同類のジブンを笑えるヒトとの会話は愉快です。
他人を俎上に上げる必要なく、自らまな板の上でタップダンスですからね♪
面白おかしく話すことで、失敗を楽しいネタに変えていく。
ある意味、これも記憶の改ざんです。
うまく行ったことは、たいてい後付けで成功の理由・要因をこじつけるもんです。
しかし、実際には狙ってうまく行くなんてことはまずない、あくまで私の体験上ですが。
現実には、なんとなくやってるうちに軌道に乗った、思いがけずうまく行った、とそんなのが多い。
後付けのこじつけを話しているうちに、それが本当だったような錯覚に陥る。
この過程でどんどん記憶が改ざんされるんですな。
「起こったことは起こったこと」
映画「テネット」のセリフですが、事実は事実として、その解釈は人の数だけある。
そして、解釈と改ざん方法は、自分に都合よくなるのが当たり前ですよね。
『血脈』のなかでも、周囲からウソつき呼ばわりされても当人はウソをついてるつもりはない、というシチュエーションがたびたびありました。
登場人物たちは一様に、本氣で「だってそうだったんだから」と首をかしげるのです。
いやぁ、ワタシもさんざんこんなことを繰り返してきたんだわ。
でもま、いい具合に改ざんできて、今がある。
父義宣(ぎせん)の血か?
義宣は人をおちょくったり、からかうのが大好きでした。
ワタシも小さいころから、義宣からいろんなあだ名で呼ばれ、いじられてきた。
思うに小さいときに、この「いじられ免疫」をつけてもらったおかげで、生き抜いてこれたのかも。
幼少期から身体的にも容姿的にも精神的にも、山のようなコンプレックスをかかえていた。
今現在もそれらが減ったわけではないけれど、案外お氣楽に生きている。
たぶん、「手前勝手な」物事の解釈と記憶の改ざん方法が功を奏しているように思う。
自分の中に、義宣の楽天とミョウコウの強烈な思い込みの血を感じます、はい。
ということで、週末もご機嫌元氣に過ごしましょう。
今日もおつきあい、ありがとうございました。