芋ずる賢治の読書生活 |
おはようございます。
深夜、ケッケッケ、ケッケッケという音が響き渡ります。
だれだろ? 吐いてるわ~、ゲッ、マーライオンになってる。
閑静な住宅街かつ防音性が高い我が家、別室でも猫たちの動向が手に取るように分かります。
夜中の運動会はもちろん、紙をカジカジしてるな、カーテンに登った、スーパーねこ友を咥えて歩き回っている、ヨガマットにキックしてる、ちぃちぃがおしっこしてる、今度はトーマだ、とか。
しかし、水状のゲロッパは放っておけない。
ヨッコラショと起き上がって、現場に向かいます。
書庫の棚の上から、床に向かってゲロッた跡発見。
これはわこだな、やれやれ。
わこ、お年のせいか、吐くことが増えました。
黙々と拭き掃除を済ませ、寝床に戻る。
本を読もうとすると、夏子が間に入って、読めない。
読めないんですけど、なっちゃん。
態勢を変えながら読書を続けるうちにいつしか寝落ちしました。
小松和彦『怪異の民俗学8 境界』を読んでいたら、ちょっと怖い夢を見てしまった。
でも、境界に現れるモノ、面白いんですよ。
「虹」は「蛇」とか、「辻」の意味、秩序と混沌、今も暮らしに残る風習など、知らずにやっていることの意味が解き明かされる瞬間、寝床の中で「おおーっ」とうめく。
昼間の読書は川辺さんからお借りした『カカ・ムラド ナカムラのおじさん』。
大干ばつのアフガニスタンに、ふるさとの山田堰の技術を導入し、緑化を成功させた中村哲さんが主人公の絵本です。
汚れちまったショローのこころが洗われる、そよ風のような中村哲さん。
そして、
「世界全体が幸せにならないかぎり個人の幸せはありえない」
といった宮沢賢治を思います。
以前にも書きましたが、中村さんは賢治の『セロ弾きのゴーシュ』にご自分を重ねておられたと、別の本で知りました。
オーケストラで厄介者扱いされていたゴーシュが、毎夜セロの練習をしていると、次から次へと動物たちがやってきてはゴーシュに頼みごとをする。
ゴーシュは怒りながら、面倒だなと思いながらも、動物たちのリクエストに応えます。
そして、やがて演奏会で、ゴーシュのセロが絶賛される物語。
中村さんの趣旨は、たしか「だれかから請われてやっただけ」というような意味だったと思います。
なんと謙虚な、謙虚過ぎる。
先日読み終わった中井久夫の本でも、賢治が出てきました。
(以下ワタシの解釈)東北弁の賢治を、標準語に翻訳することについての話で、方言もまた外国語と同様といった内容でした。
実は、和歌山でお年寄りの会話は半分以上理解できなかったんですよ。
なんとなく適当にうなずいていた。
ですから、
「人間関係は勘違いでなりたっている」
という言葉は真実ですね。
それにしても、どの本を読んでも賢治が出てくる。
こんなにも日本中(いや、今や世界規模で)いたるところに賢治がしみ込んでいる。
これって、スゴいことだと思います。
毎月1作品ずつ賢治を読み続けていることの必然。
あらら、ごめんなさい、今日も脇道、寄り道、回り道してしまいました。
皆さんの金曜日、今日もご機嫌元氣な1日を。