2023年 12月 06日
『臨床と言葉』河合隼雄×鷲田清一 |
おはようございます。
庭の土壌改良を始めてから、NOTEを書かなくなっています。 コレ、おそらく連動している。 土を耕すことは、オノレを耕すことにつながっていて、まだ十分に耕していない状態で書いてもダメと、無意識が悟ったんではないか、と。 焦らず、しっかり土台作りをしませう。
さぁ、今日は薪取会作業日、行ってきまーす。 皆様もご機嫌元氣な1日を。
臨床心理学者と臨床哲学者による「ことば」とはなにか、「人間」とはなにか、「人と人の距離」とは、「聴く」ことの本質とは。
引用したい文章がたくさんありますが、今日はこちらを。
鷲田清一さんの「語りについて」から193ページ。
理解するとは、合意とか合一といった到達点をめがけるものではなく、分からないままに身をさらし合う果てしのないプロセスなのではないか。
一致よりも不一致、伝達よりも伝達不能、それを思い知ることこそが、理解においては重要な意味を持つ。
そういう苦い過程を踏んだあとでこそ、「あのときは分からなかったけれども、今ならわかる」ということも起こるのではないか。
理解は常に時間的な出来事でもあるのだ。
他者の想いにふれ、それを受け入れることで、自己のうちになにかが変わる、これまでと違ったふうにじぶんを感じられるようになる出来事が起こる……
じぶんのことを分かろうと、相手がじぶんに関心を持ち続けていてくれる相手のことばやふるまいのうちに確認できたとき、ひとは「わかってもらえた」と感じるのであろう。理解できないからといってこの場から立ち去らないこと、それでもなんとか分かろうとすること、その姿勢が理解においてはいちばん大切なのだろう。
こんな忍耐力を誰に対しても持てるもんではない、というのが正直なところですが、「理解」とか「わかるよ」なんて言葉はめったに使えるもんではないと、そう思いますね。
実は今までさんざん使ってました、ごめんなさい。
by cs-nanri
| 2023-12-06 08:35
| 本がなければ